music in more natural “音楽をもっと自然に”

Music in more natural “音楽をもっと自然に”


ストラディバリやガルネリが製作した楽器は素晴らしい。しかし、彼らの形をただ真似する楽器には何の価値もない。彼らの意思を継ぐこと、自らの内面に問い続けることによって得た発想や技能、そして何より木の心を読み、水、空気、土に尊敬の念を抱き自然から表現すること。それが良い楽器へと繋がるはずだ。



2020年2月13日木曜日

なぜ楽器を製作するのか

これまで職人という響きやルシエ、アーティストという言葉に、どうも当てはまらない違和感をを感じ続けていた。

やっていることは、バイオリンを作っているのだけれど、やりたいことは生命や自然の摂理のなかに違和感なく(自然のなかに、ぽんっと置いてあっても馴染むような)楽器を作ること。金属音ではなく、山脈の中に涌き出る清流のような澄んだ音、岩肌を乗り上げ力強さのある激流のような低音。侘び寂びというと急に分かりにくくなるが、私がアンティークフィニッシュを好むのは豪華絢爛ではなく、自然の中の質素な寂びのような美しさ、一方自然の猛威を視覚的にも表現したいからである。

バイオリン職人というと、技術があり、厳格であるイメージで、またアーティストは発想豊かで奇抜。どちらも製作をする上でやろうとしていることと明らかに違うから違和感があるのだと思う。

楽器を作る上で、職人でもアーティストでもないとすれば、私は『表現したい』だけなのかもしれない。

現代の便利で無機質で自己顕示の強い時代に、自分達は所詮、地球上のある種の動物であり、他の全てと同様生き死ぬ存在であることを、音楽をもって垣間見ることができるような瞬間を味わえる楽器をつくることが私の使命であり、目的なんだと思う。

世の中に流通している迫力のある楽器をつくる製作者ではなく、日本古くから残る自然と調和する心がある表現者になる。

2019年12月23日月曜日

Strad model c1710

今回はコピーではなく1708年頃から1710年ごろにかけてのストラドからインスパイアされた楽器を製作しようと実践。

というのもコピーをすると寸法やその楽器の特徴に捕らわれすぎるため。

この時期のストラドの意思を感じとり、どんな音を求めたのか、なぜゴールデンピリオドたるべき楽器になったのか。そこから共感しながら自分の個性を出したい。

2019年の製作は力が入り、綺麗に作ろうとか良い楽器を作ろうと考えすぎた。大切なのはバランスが取れるかどうか。陰にも陽にも振れるためにはそれが必要。

どうしても許せない部分以外は気楽にいければいいのかなという心構えで2020年を迎えられればと思っております。

2019年7月21日日曜日

オーストラリアcongress

ワークショップに行ってきました。
バサーストというシドニーからブルーマウンテンを越え200キロくらい離れた町。

普段孤独に作業しているからか、周りに沢山作業しているひとがいるのが新鮮だった。チューターはジェリーパセヴィッチ、ピーターグッドフェロー、デヴィッドバージェス、ヒューウィトコム、ライナーベルハルツといった世界中の一流職人たち。

しつこく質問したり、そういう人たちとコミュニケーションとるだけで、非常に刺激になるし、成長できた気がした。そのような場所に身を置くことをこれからも大切にしていきたい。


2019年6月28日金曜日

Stradivariusモデル

新たにストラディバリ1704年Betts

pフォーム(ストラドの内枠)で作られた代表的なモデル

ストラドの中ではアーチが高く、コーナーが長いのが特徴です。

もっとも美しいといっても過言ではないBetts

ストラドや材料と対話しながら良い作品にしていきたい。

2019年6月19日水曜日

カルロベルゴンツィモデル





カルロベルゴンツィモデル完成。木と向き合い続けた。9月にこのモデルのオリジナルの所有者に引き渡します。ウィーン交響楽団やバイエルン放送、バルセロナ交響楽団でコンサートミストレスとして活躍してきた方。音も渡す直前まで集中して調整したい。この楽器が健康で末永く世界で活躍できることを祈ります。

2019年4月20日土曜日

作るということ

ものつくりには、二通りある

クリエイターによるもの
工人・職人によるもの

クリエイター、作家、(芸術家)は自らものを生み出す人たちのことで、工人・職人は伝統や昔からあるものに大きく影響されながら製作する。この二つは大きく違う。作家は作品を捻出するところに意味があり、工人は過去の良い品に「乗っかり」続けることによって美しいものを見つけていく。目指すところは似ているがルートが違うのだ。

バイオリンが変形していかない大きな理由は、バイオリンが1600年代から1700年代に作られた伝統工芸だからだ。職人によって伝統を継承され続けた、偉大な道具だ。

現代、AIの進歩によって様々な道具や考え方が改良されてきた。3Dプリンターなどはまさに夢の神器のようだ。まるで人間が進化して昔よりも良いものが作れると錯覚する。

しかし、果たしてこのような製品に意味はあるのか。私たち現代人は過去の人たちより優れているのか。そんなことはない。私たちは、あらゆるものを得ることによって、あらゆる伝統的な技術や考えを失っている。

ものつくりには、優れたものを尊敬する念が欠かせない。それはクリエイターでも職人でも同じ。いい作品を作るためには、過去のものを見続け、そこから学ぶことが必要なのだ。決して真似をするのではなく、伝統を敬い、作っていく中で個性を浮き上がらせるのだと思う。

よく、自己を表現しろ、個性を出せという。しかし、そういう製品は醜い。楽器演奏でも同じでどんなに有名な演奏家でも、「私の音を聞いて」というのが見て取れる演奏は技術を見せられてはいるが美しくはない。大切なのは自己を表現するのではなく、個性が出てくるまで考え続けられているかということ。毎日の研鑽が滲み出る作品を作ること。それがものを作るということだ。

イギリスで1900年代に全世界のトップのヴァイオリン店だったHill商会の本の一説にある素晴らしい文章を見つけた。
If we of modern times really wish to regain the knowledge possessed on this subject by the old makers, we must begin by retracing our steps. Leaving behind us this very commercial age, we must seek to work under conditions more resembling those of the period when the grand old masters of violin making flourished.Success will only come to those who, mindful of the old traditions,
unhesitatingly return to them.

古い伝統に立ち返ることを大切にすること。それを忘れずに仕事をしていきたい。




バスバーについて

バイオリン属の弦楽器にはバスバーという材が表板の裏側に走っている。

楽器製作を始めた当初、この作業は至極難しい。バイオリンの持つアーチに対して完璧に添わせるようにカッティングしなければならないからだ。



慣れてくるとフィッティング自体には問題は無くなるが、他に考えることが山ほど出てくる。板の厚み、バスバーの山の高さ、フィッティングの際に両端をほんの少し浮かせることによってテンションをかけるか等だ。

これはバスバーを製作する人による考え方の部分が大きい。

先日ふと疑問に思い、イギリスの老舗JABeareや名器を扱う工房で長年働いていた修復氏の方にバスバーについて質問してみた。

答えは思っていたよりか弱いし、無理がない考えだ。

大切なのはバスバーというのは楽器の振動をサポートする役割ということを忘れないこと。

Hillの書籍“Antonio Stradivarius”によると、もともと1600年代の初めにイタリアで作られていた楽器にはバスバーは無かった。バスバーの部分の板厚が若干厚く作られていただけなのだ。それはマッジーニ以前のメーカーによくみられた方法のようだ。当時のブレシャなどの製作者による楽器の板厚はそれほど厳密ではなかった。板厚をバスバーの位置だけ厚めに作るのがメジャーな方法だったが、薄くなってしまったりした。板を廃棄するのが勿体なかったため、バーをつけたのが始まりだったようだ。さらに当時のクレモナのベースバーはか弱く、ストラドのものですら現在のものとは比べ物にならないほど小さいものだった。

あくまでも、振動を全体に伝え、金属弦からのテンションに耐えるための補強材としての役割。音を良くしようと無闇にテンションをかけるのは当時の製作者の意図と異なる。
音への効果に目を眩ませず、楽器にダメージを与えないこと。一つ教訓になった。

2019年4月10日水曜日

良い製品とは

良い製品とはなんだろうか。
便利なもの、愛情の持てるもの、美しいもの、日々の生活に必要なもの。人によって色々と言えると思う。

良い製品とは何かずっと考え続けてきた。あらゆる商品や製品など見て私が感じたことは、素材に対する感謝の念があるかどうか。つまり、自然を敬う心がある製品は素晴らしいということ。

例えば、鉄製品を扱う際、鉄に対してどれだけ向き合い、鉄の事をどれだけ理解するか。木工の場合、木との対話、木の心をどれだけ感じ取れるか。分かっていても実行できている製品は少ない。例えばバルミューダのように素晴らしい製品を作る会社もあれば、折角の木目を潰すような家具をつくる会社は世の中に山ほどある。また、潜在的な部分を忘れ、形だけ追い求めたような製品も溢れるように生産されている。

平成の30年間でスマートフォン、インターネットの普及、AIの進歩など人々の生活は便利な世の中にしようとする製品によって日々激変してきた。

ただ、言えるのは人が便利になることを第一の目的に作られた製品は冷たい。
人のために作ることは、1つの目的だと思う。しかし、素材や自然に対する畏敬の念が二の次にくる製品ほど醜いものはない。そう上で、初めて人のために作れるのだと思う。

今住んでいる家の向かいの日本家屋が取り壊され、現代的な鉄骨の家が建とうとしている。時代の流れだから仕方がないのだが、私たちの気候に合った、何千年とかけて蓄積してきた知識や技能を今の日本の建造物は壊しているように感じる。私が懸念するのは、祖先に対しての敬う気持ちを忘れてしまうことだ。最も素晴らしい日本の建造物はスカイツリーやあべのハルカスではなく、法隆寺や薬師寺だ。そこから1000年以上経とうが日本に合った伝統というものから学ぶ必要がある。それを踏まえた上で発展させていかないと成長どころが逆行する。

私の仕事から言うと素晴らしい楽器はストラディバリだったりデルジェスだ。しかし、彼らの形を真似をする楽器には何の価値もない。意思を継いだ楽器、そこから得た発想や技能、そして何より自然から得たものを表現すること。それが良いものへと繋がるはずだ。

アマゾンで服が買える。楽天で家電も買える。IKEAで家具も買える。しかし、我々は便利さから多くの大切にしなければならないものを失っていることについても理解しなければならない。





2019年3月18日月曜日

1967年材の表板

今回は古材の割り材を使います。50年以上前に製材されたもの。


日本は古くから木に対する知識が他の国より多い国です。仏像や建築物もエジプト、メソポタミアのころから、西洋、東南アジアの歴史ではマーブルなど石による彫刻が多いのに対して、日本の仏像や建築物はけやきや檜を使ったものが多いです。一つは、日本の宗教感による自然への崇拝によるもの。もう一つは、良質な材が取れたことにあると思います。

日本人にとって檜は馴染み深い材ですが、他の国々には檜は珍しい材木です。福島から台湾にかけての気候の中でのみ生育するようです。
そのような木を使う文化から、日本の刃物や木工技術は高まっていったのだと思います。

飛鳥時代の建築物(法隆寺など)は寄せ木作りといって、木の癖を見抜きながら組み合わせて作る技法をしていました。現代では角材に製材して釘で打つような作法(飛鳥時代にも釘は要所に使われていた)ですが、当時は木への考察がより深くないとできないものでした。

そのような建築物は千年以上持ちます。現代のツーバイフォー工法ではもって30年くらいだと言われています。

バイオリンでも、同様に言えると思います。木への配慮なく、綺麗に整えてしまえば時間の経過で木が元の癖の方に動こうとするはずです。

バイオリンは作るのが難しいのではなくて、木への対応が難しいと感じています。
今回の古材も割ることによって木の癖の向きを予測し、また木と対話することによって、末
長く愛される楽器を製作したいと思っています


2019年3月8日金曜日

「基礎」を身に着けるということ。

身体を使う仕事には、フォームについて考察することは欠かせません。
テニス選手や演奏家、バイオリン製作者すべて同じです。

人間の力が一番強く発揮される角度は約90度。これが70度や120度になると他の箇所に負担がかかります。一番わかりやすいのが肘の使い方です。重いものを押すときに肘の角度が無意識に90度付近になるのはそのためです。

スポーツ選手のフォームをみると、踏み込み、身体の軸、バネ、体の回転、瞬発的な力の入り方というリズムが連動しています。これのどれかがズレたときにミスにつながります。
演奏家でも、一流の方の弾き方を見ると、体が開くことなく重心があり、腕が肩から肘、肘から手の甲にかけて体軸を通して流れるように連動しています。

バイオリンを作る際も全く同様です。腰が入り、身体の軸、鑿を動かすときの回転の動作、すべてが運動の連鎖になっています。

よく、演奏者から、先生のフォームを真似る、練習曲を通して手の形や基礎を身に着ける。この教則本を終えたからベートーヴェンをチャレンジするというようなことを聞きます。初心者のうち、はじめはそれでも良いかもしれません。しかしながら、形だけ意識しても全くの無意味だと私は感じています。

基本は個人個人の身体と向き合うこと。基礎というのは基礎教則本を弾くことではないのです。
体感がどこにあり、体が開かず、動作が連動するかを自分で感じれるようになること。これには完成はありません。しかし、これが修正できる感覚が身についた時に、初めて「基本のき」のスタートラインに立てるのだと思います。

スポーツ選手はプレイヤーとコーチの関係ですが、演奏や製作は先生と生徒の関係です。前者は、指摘が練習方法やフォームの改善を主に指導されるのに対し、後者は先生からの作業を模す指導が主です。

基礎というのは模しながら得るものではなく、失敗しながら修正しながら自分の感覚を感じ取れるようになることではないでしょうか。練習本というのはこなすのが目的ではなく、感じ取りやすいものを演奏すべきだと感じます。

そのために多く失敗することは必要です。テニスでは意味のあるたくさんボールを打つこと、演奏やバイオリン製作では自分のインナーボイスを聞きながら常に問いかけ、数をこなすこと。決して難しいパッセージを首を捻じりながら弾けるようになることではないはずです。

世界ランキングトップ10のテニス選手や超一流の演奏家の真似をしてはいけないとよくいいます。なぜなら、あのフォームは彼らの体のための、彼らの思考の上に成り立つフォームだからです。そんな彼らにもコーチがいるのは、常に完成がないことを知っていて、彼らの目的のために客観的に見てくれる人が必要だからではないでしょうか。

こうでなければならない。ではなく、こうかもしれない。の積み重ねが基礎を身に着けるという動作なのだと思います。